らんぷの仕業

s’il vous plait  よろしくお願いします。

1996年 堺市の災いの夏

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

25年前の1996年7月14日に堺市で起きていたこと、我が家で起きたことを私は今でもはっきり記憶している。

予兆は2日前にあったらしい。らしいと言うのは私には自覚できなかったことだから。

7月12日に堺市で食中毒が発生した。それは小さく報道されていて私の耳には入らなかった。

13日の土曜日。家族三人で泉ヶ丘へ買い物に出た。娘がお腹が痛いと言い出した。でもちょっとだけと言う。普通に買い物を済ませて帰宅した。娘は平気だった。堺市で集団食中毒が発生していると言うニュースが大きくなっていた。でも我が家には関係のない話だ。私は気にも留めなかった。

14日の日曜日。私は用事があった。15年来の友人たちとの集まりがあって、朝9時に家を出た。夕方6時過ぎに帰宅した。夫が居間でビールを飲んでいた。娘の姿がない。娘はと訊くと「なんかずっと部屋にいるで」と夫は答えた。私が「お土産買ってきたよ」と娘の部屋のふすまを開けると、娘がベッドに横になってシクシク泣いていた。「どうしたん!」「お腹が痛い…」と娘は小さな声で答えた。父親に腹痛を訴えられるほど娘は幼くなかったのだ。

この後、娘はトイレにとじこもり状態だった。出てきたかと思えばまたすぐ「お腹が痛い」と言ってトイレに駆け込む。トイレの中で「痛い痛い」と泣いている。私にはどうすることもできない。トイレから出てきた時にベッドに倒れこむ娘の背中をさすってやることくらいしかできない。この頃には「Oー157」(腸管出血性大腸菌)の名前が耳に入ってきていた。

テレビのニュースが大きく伝えている。娘の通う小学校の連絡網が他のお母さんたちから電話で入って来る。

「明日は給食は無しで午後は休校です」が最初の連絡。が、すぐに「明日は朝から休校」それもすぐに「夏休みまで休校」「2学期まで休校。休み中に絶対に学校には入らないように」とその内容が厳しさを増してゆく。「お子さんの様子はどうですか?」と訊かれる。「おなかが痛いと言っています」「明日にでもお医者さんに連れて行った方が良いですね」「はい、そうします」私たちはまだ緊急事態の度合いが呑み込めずこんな緩い会話を交わしていたのだ。

「今からお医者さんへ行こうか?」と娘に訊いてみる。「いい…」と答える娘。

西宮に住む私の姉からも電話がかかってきた。「なんか堺市、えらいことになってるみたいやけど、○○ちゃん大丈夫?」「うん、それがお腹が痛いって…」「なに言うてんの!すぐ病院へ連れて行ってあげや!」えらい剣幕だった。姉の言う通りかもしれない。

私たち家族が住むのは堺市の南区、泉北ニュータウンの一角でここには救急医療センターがある。電話をして「子供がお腹が痛いと…」こちらが言い終わるのを待たず「今すぐ連れてきてください!」車で行きたいが運転できる夫はすでにアルコールが入っている。

夫が娘を背負ってバス停まで歩いて行きタクシーを探した。運よく止まってくれた。「救急医療センターへ」と言うと「これで3件目なんですよ。大変ですね」運転手さんは親切だった。帰りもおそらく娘は歩けないだろうから、そしてタクシーを拾うのは難しいだろうから医療センターで待っていてくれないだろうかと頼むとメーターを落として了承してくれた。

医療センターに着くと、夜9時過ぎにもかかわらず人であふれていた。医療センターだからある程度の広さはあるのだが、苦しんでいる子供たちが床に敷かれたシートの上にお母さんやお父さんに抱かれるように横たわっている。親たちが必死で我が子を励ましている。待たされるかもしれないが、ともかく診てもらわなくては。お医者さんたちは応急処置だけを施しているようだ。思ったほど待ち時間は長くはなかった。

注射をした…(これは実は記憶にない。薬を貰ってその場で飲んだのか、どうだったか)

「私たちは応急処置だけしかできません。明日、必ず掛かりつけの医者に診てもらって下さい」と言われた。娘は先ほど変わらずぐったりしていたが診察してもらった安心感からか顔色は悪くはなかった。待ってもらっていたタクシーに乗り込んで家に帰ったのは11時過ぎだった。

翌朝、すぐ近くの内科に娘を連れて行くと同じ小学校に通う子供たちが何人かいた。

「大変なことになったね」「これからが心配やわ」とお母さん同士で話をする。

「娘さんの点滴をしますのでしばらく時間がかかります」と言われたので私は一旦家に戻ることにした。

家に戻ってきた時、やっと一息ついた気がした。しかし、堺市はこれから夏の間、死んだような街になった。Oー157を回避するためにすべての公共施設が立ち入り禁止になった。あらゆる場所で消毒があり、一家族に1本消毒液が配布された。そして、堺市はOー157に襲われた街として大きくクローズアップされてしまった。

夏になったら遊びに来る予定だった私の両親も夫の両親も「暑いから」と遠慮気味にこちらへ来ることを断ってきた。姉だけが「Oー157が怖いから行くの止めるわ」と正直に言ってきた。「ほな私がそっちへ行こうか」と言えば「何しに来るの!」とまた剣幕だ。

姉とは仲が良いのでこんな憎まれ口も叩けるが、実は怖かった。堺市から一歩外へ出るのが。堺市から他の街へ入った途端に虐められるんじゃないかと言う不安が生じていたのだ。こんな不安を抱いたのは私だけなんだろうか。

点滴のおかげで娘はみるみる回復した。小学校の夏休みの宿題はたった一つ「2学期の始業式の日にはみんな元気に登校してくること」娘はこの宿題をクリアできたけれど、それが叶わぬ子供たちも何人かいた。20年近く経って後遺症で亡くなった女性もいた。学校給食が原因で8000人近い児童がO-157を発症した堺市の災禍だ。

1996年、堺市はひと夏を閉塞感の中で喘いでいた。似て非なる夏が去年から世界中で続いている。しかし災禍は災禍だ。どうか来年は終息していますように。